羽曳野市 白鳥商店会
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歴史文化 羽曳野市

竹内街道
推古天皇の時代(613年)、難波から飛鳥(奈良)へと通じるこの竹内街道が整備された。
わが国最初の官道(国道)であり、飛鳥時代の東西交通の大動脈だった。

白鳥神社 − 古市1丁目
もとは、軽里地区の伊岐谷に創建されて
「伊岐宮」といわれていた。
江戸期の寛永末期に現在地に移され、
古市の氏神となった。
秋にはだんじりが出て、大変にぎわう。
 
白鳥神社

法泉寺(ほうせんじ)
法泉寺(ほうせんじ) − 野々上3丁目

もとは野中寺の別院だった。高さ3mの大きな弁財天像がある黄檗宗(おうばくしゅう)の寺として知られている。

ほかに平安期の聖観音菩薩立像(しょうかんのんぼさつりゅうぞう)【府指定文化財】や、室町期の非常に珍しい形式の経卓(きょうたく)【府指定文化財】がある。

 

来目皇子(くめおうじ)の墓 − はびきの3丁目

一辺45mの方墳。第31代用明天皇の皇子で聖徳太子の弟にあたる来目皇子。推古10年(602年)、征新羅大将軍に任命されたが、北九州の基地で遠征の途中に病のために没した。

来目皇子(くめおうじ)の墓

清寧陵古墳(せいねいりょうこふん) − 西浦6丁目

前方後円墳。墳丘長115m、後円墳の径60m、前方部の幅121mで、幅30〜50mの濠を持つ。
前方部が極端に大きく広がっているという6世紀の前方後円墳の特徴を持つ。


野中寺(やちゅうじ) − 野々上5丁目

聖徳太子と蘇我馬子の建立と伝えられ、「中の太子」と呼ばれている。現在でも境内には、塔跡や金堂跡など飛鳥時代の伽藍の一部が残っており、国指定の史跡になっている。
方丈(ほうじょう)や勧学院(府指定文化財)などは、江戸期に律宗の学問所が設けられたときのもの。白鳳期の弥勒菩薩半跏像(重要文化財)のほか、ヒチンジョ池西古墳石棺(府指定文化財)、お染・久松の墓などもある。境内庭園のサザンカは、府の天然記念物に指定されている。また、野中寺の東方に広がる野々上遺跡では、大型の建物群の跡が発見され、野中寺の造営や維持管理に携わった有力氏族が居住したところと推定されている。ここからは、多量の土器のほかに、特筆すべきものとして倭櫃(やまとびつ)が出土した。さらに同遺跡内には、当時の野中寺に使用されていた屋根瓦を焼いたとみられる下田池瓦窯跡も検出されている。

野中寺(やちゅうじ)
 
雅のまち はびきの「羽曳野の文化遺産」より引用

 
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